フランケンシュタイン博士とモンスターが提言する「人間の真の姿」とは【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。今回取り上げるのは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』です。過酷な運命を呪う人間すべての嘆きとは?

Cursed, cursed creator! Why did I live?

Mary Shelley, Frankenstein; or, The Modern Prometheus (1818)

「フランケンシュタイン」と聞いてほとんどの人が思い浮かべるのは、ボリス・カーロフの名演によって、われわれの集合無意識に永遠に埋め込まれた、あの怪物の姿だろう。怪物を造った博士の顔を思い浮かべる人はそう多くないにちがいない。

だが厳密には、Frankensteinとはヴィクター・フランケンシュタイン博士を指すのであって、怪物はFrankenstein’s monster(またはthe Frankenstein monster)である。小説のサブタイトル“the Modern Prometheus”(現代のプロメテウス)も、ギリシャ神話で人間を創造したとされるプロメテウスと、新たに人間を創造した博士とを重ね合わせている。

だがそういう混乱が生じるのも、納得できる話である。よく言われるように、博士と怪物は人間の二つの側面を体現しているが(世界を能動的に作っていく存在としての人間を博士は体現し、あらかじめ固有の肉体と精神を与えられた限界ある存在としての人間を怪物は体現する)、読者や観客の共感がどちらに向かうかといえば、これはもう、圧倒的に怪物にだからである。

フランケンシュタイン博士は、怪物を創造したまではいいが、出来上がった途端その醜さを憎み、怪物の気持ちなど少しも思いやらないし、ほかの人間に共感する力もさして見てとれない。一方、怪物は、自らは孤独に苛さいなまれながらも、他人が苦しんでいれば常に助けようとする。彼が復讐の鬼と化すのはあくまで、伴侶を作ってほしいという要請をフランケンシュタイン博士が冷たく拒み、彼に対し憎しみと嫌悪しか示さないからである。

映画でもモンスターはバイオリンの音色に深く感動する感受性の持ち主だが、加えて原作では、努力して読み書きを学んで、『若きヴェルターの悩み』に感動し、『失楽園』を読んでアダムやサタンの運命と自らのそれを重ね合わせる(アダムに伴侶イヴがいることをうらやみ、サタンの崇高な孤独に共感する)。要するに、フランケンシュタイン・モンスターの方がドクター・フランケンシュタインよりはるかに人間的なのである。

今回引用した「呪わしい、呪わしい創造主よ!なぜ私は生きたのか?」という怪物の嘆きは、怪物と博士の関係を人間と神の関係になぞらえていて、過酷な運命を呪う人間すべての嘆きに通じる。

ちなみに怪物はベジタリアンでもある。

I do not destroy the lamb and the kid, to glut my appetite; acorns and berries afford me sufficient nourishment.
私は己の食欲を満たすために仔羊や仔山羊を殺したりはしない。ドングリやベリーから十分栄養を得られる

と、怪物は博士に訴える。博士はまったく気付いていないが、彼が創造した生物は、おぞましい破壊的な怪物などではなく、生き物にも優しい善良な存在だったのだ。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2020年11号に掲載した記事を再編集したものです。

柴田元幸
柴田元幸

1954年、東京生まれ。アメリカ文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。アメリカ文学専攻。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳する他、『ケンブリッジ・サーカス』『翻訳教室』など著書多数。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。

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